ミヨコ大往生
12月 3, 2008 12:12 am 日々是静岡の祖母が、104歳の誕生日を目前にして天寿を全うしました。
具合が悪いと聞いて、見舞いに行こうとしたその日の朝に亡くなり、最期に会えなかったのが残念ではありましたが、少しも苦しまず、眠ったまま逝ったようで何よりでした。
ミヨコは、一言で表すとすれば「面白い」人だったと思います。
90歳代の半ば頃に5年ほどかけて書いたらしい略歴が出てきまして、便箋全9枚のうち、ラブラブカポーだったじいさんとの馴れ初めは3行、子どもの頃に近所で養殖していたらしいスッポンに関する記述が便箋丸々1枚。
同時に、私たちの父母に当たる、子どもたち宛ての手紙も出てきましたが、なぜかビニールテープで封がしてある…(そういう所には全くこだわらない)。
その略歴によれば、地元信金への就職に飽き足らず、憧れの東京に出て働いたこともあったらしい。
明治38年生まれですから大正〜昭和初期の話でしょうか。やるなミヨコ。
明るくて元気でユニークで、ちょっと(いや相当)心配性で(交差点を曲がったとこの信号が赤でも進んでいいんだよ)、そして何よりも進取の気象に富んだ人でした。
ちなみに女学校時代はなぎなたクラブで鳴らしたらしいよ。
最期の1年半ほどは特養ホームにお世話になってましたが、見舞いに行って話しかけるたび軽妙な答えが返ってきて、思い出し笑いでニヤニヤしながら帰路につくのが常でした。
通夜にはホームの職員さんも何人もおいでくださいました。
きっちぃのサンダル履き姿でボロボロ泣いてくださる方など、ミヨコは本当に最期までたくさんの方に大切にしていただいたようです。
子ども3人孫7人ひ孫13人の中でも、私は今最も身軽に動けるので、とりあえず駆けつけてから無事じいさんの元へ送り出すまで、気の済むまで存分に手伝いさせてもらいました。
っても、昨日の夜伽は従兄とふたりで、飲みながら話してるうちに夜半過ぎにうっかり寝ちゃって起きたら朝だったけどな。
孫一同、本当によくかわいがってもらったので、じいさんばあさんともみんなでしっかり見送ることができてホント良かった。
まぁ、あの世でまたラブラブしててほしいもんです。
略歴は「しやわせ(原文ママ)だった」「良い人生だった」と締められてましたけど、どうか引き続き来世でもお幸せに。